宮崎駿監督の新作、「君たちはどう生きるか」を見て来ました。

 君たちはどう生きるか を見た感想。【ネタバレあり】


10年ぶり、宮崎駿監督の映画、「君たちはどう生きるか」が、7月14日に公開されました。

当日まで、キーポスター以外の情報は一切明かされず、内容は謎のまま、という異例のスタイルで、14日当日から、SNSはその感想に溢れました。


こういった時、真っ先に行動に移せる長年の友、Jyunkaちゃんの一連のつぶやきが余りに魅力的で、これは、私もネタバレを知る前に見に行くべきか……、と思い、

見に行きました。

7月16日。14時40分~17時。


その日は朝の5時に起きて友人と庭のブラックベリーを収穫し、充実した時間を過ごして10時に友人と別れ、猫の世話をしてひとねむり。

ぽかりと目が覚めた13時。Twitterを見るとやはり気になる。Jyunkaちゃんの一連のツイート、彼女の関連リツイートがなんとも落ち着かない気分にさせた。地元映画館の上映時間を調べると、ちょうど14時40分の回がある。これはもう、見ろってことだ。


私としては珍しく、あわただしく身支度をして出かけました。


凄く暑い日でした。

車を運転していると、堤防沿いの道は視界の90%が空。

まだ積乱雲にはなりきらない、真夏一歩手前の雲の群れが、地平線近くに鮮やかに、克明に、強い日の光の中で輝いていました。

10年ぶりの新作。


実は、前回の「風立ちぬ」も、監督するのは最後の作品、と確か聞いていて、

ああ、これが最後か。こんな感じで、宮崎監督は終わるのか、となんとなく寂しく思いました。風立ちぬもよい映画だったと思います、紙飛行機が美しく飛んでいく様は今でも目に焼き付いていますし、森の中の緑は目を焼くほどに美しかった。


でも、


でも、もののけ姫やナウシカ、ラピュタのような活劇、ハウルのようなきらきらした異世界の景色、あのときめきにはかなわなかった。

映画が終わった後も、トトロやまっくろくろすけを家の中に探したいような気持とは、違ってた。


どうなんだろう。10年ぶりの映画はどうなんだろう。


”画面に宮崎監督が出てきて、椅子によいしょと座り、そこから二時間、監督が唯しゃべるだけの映画だったりして”


そんな話までSNSで見かけるほどだった。





彼女は巧い。

巧いよなあとうなった。素晴らしい言霊使いだと思う。

人をそそのかす天才だ。

一連の彼女のツイートスレッドはこちら。ぜひ見に行くか迷ってる人はご一読を。ネタバレのない素晴らしい感想です。

https://twitter.com/Jyunka/status/1679818288023601152


友にこれを言われちゃあ、見ないわけにはいかないじゃないか。

でも、実は私は、宮崎駿監督作品が、大好きで、大嫌いだ。

凄く凄く好きで、凄く凄く嫌いなのだ。

監督はいつも極上の夢を見せてくれる。キラキラして最高に美しい世界を見せてくれて、一瞬でそこにつれていってくれて、ぎゅっと掴まれる。

でも、絶対に最後の方で、私は監督に、やめて、お願い、それだけはしないでって叫ぶことになる。


お願いだから、そこにも夢を見させて。


でも、監督はいつもそこをバッサリ切る。知ってる。

もののけ姫の世界を私はとてもとても愛していて、前半一時間、あの緑の世界を旅するアシタカ、物を言う大きな獣たち、森の中で息づく神の姿、すべてが好き好きでたまらなかった。


でも、監督は神を殺していく。

やめて、お願いだから、おねがいだから、人との葛藤はあったけれど、神の力は弱まったけど、神は消えなかった、にしてくれ。


ラピュタを、無くさないでくれ。


ジジとキキは、永遠にお喋りできるようにしてくれ。


お願いだ。


でも監督はいつも、そこから私を蹴りだす。現実に戻れ、お前はその資格を失った、ここに居られるわけじゃない。と。


私はいつも宮崎作品に大なり小なり傷つけられて、大好きという気持ちと一緒に、傷む心を抱えさせられる。

そこが凄いところだと分かったうえで、いつも辛い。


だから、今度の作品もきっとそうだ。


ぐっと心構えをして観ると決めていた。

強い強い日差しの中、近場の駐車場はいっぱいで、遠方の隔離駐車場に停めねばならず、14時、暴力のような焼け付く日差しの中、映画館まで歩いた。外気温は36度を超えている。一瞬帰ろうかなって思ったけど、ここまで来たし、今日を逃せばもう来ないだろうなという確信もあったので、ぐっとこらえた。


田んぼの畦道のような遠方駐車場からの道には、ガマが実っていた。

まっすぐ立ち上がった背の高い草に、柔らかそうで硬そうな茶色の実が、どこか誇らしげに夏の日差しをものともせず。



14時20分。チケットは、タッチパネルで買おうとすると席がタッチできずに、なんでだろうと何度も首をひねった。逆だった。私は既に購入済みの席をタッチしていたのだ。びっくりした。ほとんどの席が埋まっていたのだ。この田舎で。アニメ映画で。これじゃあほぼ満席じゃないか。

ちょっと感動してしまった。


封切り二日目で。すごい。


この映画館には何度も今まで足を運んできたけど、いつも数人しか客がいなかった。

こんな人数で映画を見るのは、初めてだった。



熱中症対策にジュースだけは買おうと思ってた。すると、ジュースに映画のコースターがついていた。



そう。
これだけ。
わたしたちはたったこれだけの宣伝でこの映画を見に来たんだよ。

(柚子ジンジャーにした)





さて。


………まず、ネタバレなしの感想を書きます。

そのあと、ネタバレアリの感想に移りますので、まだ見てない人は、ネタバレなしを見た後、その先を読むか決めてください。







https://twitter.com/urahanabi/status/1680450961947643906


……ネタバレなしだと、これ以上、言葉を紡ぐ必要はない気がしている。

これ以上はJyunkaちゃんがしっかり語ってくれたから。



………そうだな。

血沸き肉躍るラピュタのような明るい冒険活劇が何より好きな人には勧めない。

トトロ派キキ派には、やめとけ、と云う。

ハウル派には、行ってもいいと思う、と云う。

もののけ姫と千と千尋派には、まあ、まあ……いいけど、うーーーん、まあいいと思う。


そんな感じで、自分で選んで、自分で、決めて、行ってきて欲しい。


と。言うわけで。


ここからはネタバレになります。


自衛してください。









===============




…………思ってたよりずっと、肌に合った。



嫌な気分にならなかったんだよ………。




私は呆然と映画館をあとにした。


なんで嫌な気分にならなかったかずっと考えていた。







ちなみに、私は原作小説????インスパイア小説???の、「君たちはどう生きるか」については一切知りません。

話題になっていたのも知っているし、漫画になっていたのも知っている。

でもなんとなくこう、私には合わない空気をひしひしと感じていて、意図的に避けていた、ので、その内容には一切触れません。


宮崎映画のみに言及していきます。






暗い。

暗いんだよ、音楽がずっと。不協和音一歩手前のような、重い重いピアノの音が始終鳴っている。


最初から鳴っている。


時代は第二次世界大戦のころなのだろう。

主人公のマヒトは、(眞人だったか真人だったか)真夜中、病身の母の入院している病院の火事に家を飛び出すところから話が始まる。


美しく、歪んだ世界に、火の粉が。まるで美しい花びらのように散る。


「たすけて。マヒト、たすけて」

マヒトの中の母親がそうマヒトを呼ぶ。真夜中の野次馬の中を駆け抜けて、止める消防団員の脇をすり抜けて、燃え盛る火の中に飛び込もうとする。彼の心象風景のために世界は歪んでおり、焦燥と興奮で実像は流れるように引き延ばされて、ただただ燃え盛る火ばかりが残る。


マヒトの母親は炎の中で、女神のように火をまとい(しかもなぜか少女の姿だ)、どこか美しい笑顔さえ浮かべて火に溶け込んでいった。





マヒトの父親は、開戦後3年目、マヒトを連れて東京を離れ、母親の実家のある山奥に疎開することとなった。

父親は、亡くなった母親の実妹と再婚する。(当時はよくあった)



疎開した駅に、迎えに来る実母の妹で、新しい母のナツコ。


「そのひとは、母親にそっくりだった」


……この!ナツコさん登場シーンが、偏執的に美しくて…!

人力自転車から降りるときの足先の描写に、恐ろしいほど清らかなエロティックさが溢れていて、マヒトが彼女のことを、母と見る前に、女として見てしまったことを知らされる。


とにかく美しいシーンだった。

本当に美しい人だった。



実家はとても大きなお屋敷。この、家の様子がまた素晴らしい!

多分元からこの地方の豪商で大地主、地元で町中からお嬢様と呼ばれているだろう、家の娘。

父親は、彼女たち姉妹の家への入り婿なのだろう、実家のすぐそばに見える工場。

日清日露の勝ち戦で、たっぷりと潤った軍需産業の、そんな実家だったのだ。


見慣れぬ清朝風の白い彫刻柱が玄関前に立つお屋敷。

六角形の天守閣のような増築部分。

家の中は、何十畳あるか分からない和室に、金の襖絵。

入り口には狛犬(だと思った)の大仰な金絵。


大地主。多分成金。(どうやら武家ではない、家の様子が、武家風じゃなかったのだ)


実は宮崎監督も、そういった軍需に潤ったご実家だったそうで。ああ、これが彼の原風景の一旦なのだと思った。


数千人の従業員を擁した一族が経営する宮崎航空興学役員を務める一家の4人兄弟の二男として、1941年1月5日に東京市で生まれた。比較的に裕福な暮らしをしていたという。

太平洋戦争が始まり、宮崎航空機製作所が宇都宮に移転したこともあり、幼児期に家族で宇都宮に疎開し、小学校3年生まで暮らしていた[注 2]。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居。

wikiより。 

そして、実際には、母屋の横にしつらえた、雰囲気のいい小さな洋館に住まうことになる。


………この。この、家の様子が本当に、もう。美しくて。大好きな宮崎作品の、一昔前の懐かしい屋敷、目を奪われる情景描写。何度も、何度も見たい。このシーンを飽きるほど見返したい。


……それはともかく。

わたしたちは、マヒトの視点で、マヒトの思ったこと、感じたことを感じさせられる。

見知らぬ家の老婆たちの、妖怪じみた、なにか、いやなもの、という印象。

あさましく、下品で、隙あればかすめ取ろうとする卑しさのようなものを見せられ、マヒトの気持ちを追体験させられる。


そう。この映画はずっと暗くて、ずっと内省的に進む。


ずっと。ずっとだ。


そして、覗き屋と呼ばれる、家の池に住むアオサギと出会う。





暗いピアノの音。美しい緑の情景。

戦争中だというのに裕福な家。

軍需で儲かって困る、とても言いたげな父親の、あさましい野心に満ちた顔。


ここに世相を感じない人はいないだろう。

わたしたちは今、遠方の戦争を横目に、裕福で(いくら貧困が進んだと言っても、日本は世界有数の裕福な国の一つだろう)美しい、壊れていない自然のあふれた国に住み、軍需の特需の波に少なからず乗っかって、好景気の国にいる。


ああ、これは、監督からのメッセージだ。

こんなに美しい緑に目を焼かれながら、遠くでは戦争で死んでいる人が居る。

でも、どうにもできない。なにをしたらいいかわからない。とはいえ、胸の重くなる罪悪感がまとわりつき、何処を向いたらいいのか、分からない。マヒトのごとく。

きみは、いま、何を、考えているのだ。



マヒトは疎開先の学校で喧嘩をし、帰り道、わざと自分で自分のこめかみを石で傷つけて、子供なりの手段で、学校に行くのをやめてしまう。

(当然だ、突然やってきた東京からのこぎれいな転校生。坊主頭に交じって彼は当時としてはあり得ない、長髪のままなのだ)


(私の母も疎開を経験した世代で、やはり東京から田舎に疎開し、地元の子たちとうまく行かずにいじめられたと言っていた。これは本当によくある話だったのだ)



父親は、彼の心に寄り添ってはくれない、父は特需で忙しい。家中に運び込まれる戦闘機用のコックピットのガラス部分は、王蟲の目を運ぶナウシカの姿を思い出させた。

そして、宮崎作品で繰り返し伝えられてきた、

「だけど兵器に罪はない。戦争を起こす、人間たちは醜いが、その道具に罪はないのだ」

を再び見せつけられる。美しいコックピットのガラスを見て、きれいだと呟いたマヒトは、そのまま、きっと監督の実体験なのだろう。


マヒトは笑わない。

ずっと笑わない。


作中、彼が笑顔らしいものを見せたのは、お母さんのジャムパン、を頬張った時だけだったように記憶している。



こめかみの傷は思ったより深く、数針縫うことになり、マヒトは高い熱を出して寝込んでしまう。



そう。

この先のお話は全て、彼が、高熱のなか見た夢だったのかもしれない、という、可能性を残したまま展開していく。



監督に、「だから、これは、何処までも内省的な話なんだ」と釘を刺された。


世界はどんどん、どんどん、マヒトの内面へと落ちていく。



夢と現実のはざまから、彼は零れ落ち、生と死のはざまの世界にとたどり着く。


美しい。


美しい、これは、宮崎少年の夢の中だ。


監督はここから来た。


ここが、彼の原点なのか、と、荒れ狂う海と、鳥と、死者の世界に、マヒトと私たちは立たされた。






監督の描くヒロインは、常に聖母だったと思う。

ナウシカや、シータ、ソフィーはその最たるものだろう。

これが、監督の理想の女性像なんだろうと思う。

どこまでも、母親のように包み込んでくれる、母性の塊。


今作ではとうとう、オブラートで包むことさえやめてしまった。

ヒロインは、母親だった。母親しかいなかった。


もう、ボーイミーツガールでさえない。

ボーイミーツマザーだ。


そしてこれが、僕の世界なのだ、と、どーん!!とお出しされてしまった。



ボーイミーツマザー。



それをもう、まっすぐに出されたことに、ある意味感動さえ覚えてしまった。

とうとう監督は性癖を隠すこともやめてしまった。

(だから私は本当に、これが、監督からの、これが僕なんだ、という、手紙なのだと、本当に本当に思った)



青鷺は知性を示す鳥だ。そして、死と再生を意味する鳥だ。


古代エジプトでは神の使いとされ、やがてフェニックスの原型となった。

夜に飛ぶ、数少ない鳥で、人々の農業という生活に密着していたからだろう、世界中に伝説がある。

日本では、夜に光る鳥として、妖怪の仲間入りもしている。

青鷺は黄泉の国とこの世を行き来する鳥なのだ。



大叔父は、青鷺に屋敷の守りを任せた。

空から降ってきた、外宇宙から訪れた神、これを封印するために恐らく建てられた屋敷。

その入り口を守る鳥だった。


ペリカンたちは、キリスト教では死者に血を分け与え、復活を促す自己犠牲の鳥という伝説を持つ。


恐らくその容貌から、外国の血を引いているであろう、屋敷の主、大叔父にとって、ペリカンは復活を載せる鳥として選ばれたのかもしれない。

日本では白い大きな鳥は、死者の魂を載せて飛ぶ鳥だ。


どちらも、あの世に居るのにふさわしい鳥だ。


顔のない影法師のような大人たちの霊、何も知らない無垢な白い塊のようなかわいらしいまるまるたち(違う名前だったと思うが思い出せない)は、おそらく、幼くして死んだ子供の霊だ。


配給を待つ顔のない大人の列。


幼くして死んだたくさんの子供たち。


この作品には、戦争の影が色濃く反映されていて、ああ、これが、やっぱり監督の原風景なのか。


山ほどの鳥。

グロテスクでさえある鳥。

家の屋根を歩く鳥の足音に、監視されているかのような思いさえ抱く少年。

友好的ではない鳥の描き方。

これが、これが子供だった頃の監督の目線なのかとさえ錯覚する。

(そしてその鋭さに舌を巻く。そうだよな、鳥は見分けるのが難しい。同じ一羽がずっと自分を見ているような気になることもあるだろう、そう仮定したとき、鳥は訪問者ではなく監視者になるのだ)


そして少しづつ少年の世界は、順応していく。


妖怪のようにさえ思えた、異質な老婆たちを、家族と思うようになる。

(あの世界が少年の内面の世界だという証のように、老婆たちは人形として彼の寝台にはべる。明らかにあれは現実世界で、熱を出して寝込んでいるマヒトの看病にかわるがわる訪れ、枕辺に侍る老婆たちの投影だろうから。やはりこれは、高熱を出した少年の夢の話なのかもしれない)


自分を守る存在だと受け入れ、ナツコを、母として受け入れていく。


少年は変われるという、メッセージかもしれないし、変わるべきだというメッセージかもしれない。


これは、成長なのだろうか。鈍化なのだろうか。変質なのだろうか。



監督はずっと、作品を通して、語り掛けてくる。



そして、現実の父親と相対するもう一人の父親である、塔の主の大叔父の、この世界の均衡を保ってくれという願いを、マヒトは拒絶した。



隕石は、暴走し、霧散する。

これが、この作品の神殺しに当たるのかもしれない。

私がいつも引っかかって傷ついてきた「神殺し」のシーンが、今回は感情移入できない隕石だったことが、この作品への引っ掛かりをなくしたのかもしれない。


最後、生まれた弟の顔はまだ、あの世界で見た、まるまるたちの顔にそっくりだった。

あの世界が、現実と繋がっていることの証左だ。


実母のヒサコは、火の中で消えたけれど、彼女は自ら火を呼び、浄化することが出来る存在だった。だから、現実で焼死した彼女もまた、何かを浄化して消えたのかもしれないという暗示を残していった。(あまつさえ冒頭火に溶けて行った彼女は、少女のままだった)

マヒトにとって、これは救いだったはず。PTSDと化していたトラウマの、解消に当たる。



宮崎監督からの、長い長い手紙だった。

長い長い手紙だった。


塔を、壊して、進んでいけと。

私の世界はここにある。すべて見せた。


キリコが解体した魚のように。

すべて見せた。この内臓を食い尽くし、栄養として、まるまる(結局思い出せない)たちのように新しい世界に生まれていきなさい、と。


監督は大叔父であり、マヒトであり、私たちを見送るひとだった。



監督の作り上げた世界は、瓦解した。美しい知識の家は、崩壊し、監督自身が、どこかから埋め込まれた、隕石のような強く、恐ろしく、荒れ狂う衝動の塊は四散し、世界に散っていった。


(監督がある日空から降ってきたようにその身の内に埋め込まれた隕石のような強い欲望は、それを封じるために監督は家を建てて──ジブリと言う会社の象徴か──、今、役目を終えて世界に散っていく)



本当に、これは、もう、冒頭の、Jyunkaちゃんの言葉の通りだと思った。






ああ、今度こそこれが、監督からの最後の手紙なんだって、私も本当に思った。

そう、思わされた。


彼はここから来て、ここに還っていくつもりなのだ、と。

これが、彼の墓標なのだと。








これが私の、君たちはどう生きるか、の感想。


帰り道、まだ熱せられて真昼と変わらないほど暑い17時。

やっぱり真っ青な空と、家々にはりめぐらされた電線が、斜めの日の光を受けてキラキラ光っていて、行きと変わらない景色だけど、もう、この帰りの景色の中では、私は、別離の手紙を受け取って、監督のいない世界に行くんだなと思った。


私は、監督の作品の中で拾った墓石の欠片を握りしめて、この先行けるだろうか。

この世界を忘れずに、ずっと行けるだろうか。

そこに、キリコさんのこけしを、お守りとして持たせてくれたのは、監督の精いっぱいの優しさだったのじゃないだろうか。


母を描き続けた監督の、強力なお守りを渡されて、

私は、あの島の墓石の欠片を握りしめ、今こうしてブログを書いている。




2023年7月17日。裏花火 記

追記。

満席の映画館だったのにもかかわらず、上映中、お喋りだったり、やたらと音をたてたり、光が目に入ったり、といった、鑑賞の集中を妨げる要素を全く感じませんでした。あんなにたくさんの人がいたのに。これはすごいことだと思いました。同じ映画館で見てくれた、あの時の皆さん、本当にありがとう。おかげさまで、とても楽しく、あの世界に浸ることが出来ました。
















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